前章
実際のところ、その骨董品店にたどり着くまでの道程を私はどうしても思い出せない。
気が付くと、それ自体が骨董品のように特有の匂いを醸している店先に立っていたのだ。
静時庵
それが骨董品店の名だった。
「せいじあん」とでも読むのだろうか。
流木に彫刻されたその看板も古風で、なかなか趣のあるものだった。
黄昏どきの物憂げな光と空気に、店全体が磨硝子ごしに眺めるかのような蒙昧さを醸している。
もちろん私の視覚がどうかしてしまった訳ではない。あくまで印象の記述である。
私は決して骨董などの類に造詣が深い訳ではない。
けれど時にはこのような黴臭い品々を眺めるのも悪くないと思い至り、薄闇に満たされたその店内に歩を進めたのである。
静時庵の店内には、それなりに箔のある壷や絵画、書の類が並べられていて、
私はそれらに込められた年月が放つ妖力にあてられたかのように暫し時を忘れた。
ふと、一箇所だけ気配の違う棚があった。
遠目に見たその棚には、金魚を入れるような方形の水槽が置いてあるようだった。
近付いて見るとそれは人形を入れる為の硝子箱で、
中には少女をかたどった人形が二体飾られている。
私は少女趣味という訳ではないのだが、その二体の人形には見入らずにはいられなかった。
これ程精緻にかたどられた造型は見た事がない。
人形らしい脚色やわざとらしさは一切なく、一瞬、何かの本で読んだ小人が実在していて、
その剥製を目の当たりにしているのかと思ったくらいである。
少女二人、いや二体はゆったりと草の斜面に並んで座っている。
十四五歳くらいだろうか。
一体はおかっぱ頭に質素な和服といった出で立ち、
もう一体は長い髪を束ねて、嫌味ではない程度に装飾された洋装だった。
大正か昭和の初期の少女が手本となっている。
おそらく季節は春で、やわらかな風がその髪と服とをそよがせている。
表情はとても安らかで、幸福そうだった。
二体は正面を向き、うっすらと瞳を閉じているため視線こそ交わしてはいないが、
お互いの存在に安堵感やぬくもりのようなものを感じているように見える。
そうこう想いを廻らせているうちに、私はこれが人形だという事を殆ど忘れてしまっていた。
「申し訳ないが」
突然背後から老人の声に話し掛けられて、私は実際に声を上げて驚いた。
振り向くと白髪の、まさしく骨董品店主といわんばかりの老人が立っていた。
「驚かすつもりはなかったのだが」
「いえ、こちらこそ取り乱してしまいまして」
「申し訳ないがそれは売り物ではなくての」
「はぁ」
私は間の抜けた返事をした。
「それは儂の副業での。出来が良かったので飾っておくのも良かろうと、
そう思った上での酔狂ゆえ値は付けられぬ」
この老人は副業で人形作家をしているのだろうか。
耳触りのよい老人の声音は多くの説明を必要とせずに、私を納得させてしまう力を持っていた。
「素晴らしい腕だと思います。微細で、あたたかで、静かなのに鬼気迫るような存在感がある。
まるで、そう、時間の一辺を切り取ってしまったかのような」
「ふむ、『切り取る』か。『止める』と言うより詩的かもしれぬ。
うむ、これからは切り取ると言う事にしよう」
老人はぼそぼそと独り言を言った。
「私は人形には全く造詣がないのですが、この人形にはとても、なんというか、感嘆させられる。
・・・・・・上手く言えないな・・・・・・とにかく何か、違うものを感じているのです」
「それは人形ではない。人だよ」
「は?」
「それは儂が時を止めて、・・・・・・いや切り取ってそこに据えたのだ」
この老人が語ると、何もかもが真実のような錯覚に囚われる。
「儂は契約を交わした人物の時を止める。その人物が心の底から幸せだと思った瞬間に」
この老人は精神を病んでいるのだろうか。一瞬そう思うが、静時庵の薄闇と、老人の声音と、
そして私の傍らに置かれた人形とに説得され切ってしまったようだ。
「見込みのある人物はこの静時庵を見付け出す。気付くと言ってもよいな。そして儂と契約するのだ。
最も幸せだと感じた瞬間に時を止めてください、とな」
老人は堰を切ったように語り出した。
「契約した事をその人物は憶えていない。ごく普通に骨董品を眺めて帰ったと思いこむ。
そしてある時、心の底から幸せだと思った瞬間ここに戻って来る。今そこに飾られた二人のように」
私は完全に老人の雰囲気に飲まれていた。
「この二人は、本当に最高傑作と言って良いかもしれぬ」
老人はそこで私を直視した。
「聴きたいかね、この二人の話を」
私は拒否できなかった。