律は専属娼婦だった。

孤児として浮浪者同然の生活を十二年重ねていたある日、何の因果か好事家の富豪に買われた。
もう二年その富豪の愛玩として食いぶちを稼いでいる事になる。

天涯孤独の小娘がとりあえず食いっぱぐれのない生活に落ち着けたのだから、
それなりに感謝してしかるべきなのだが、決して自分の境遇が幸せだとは思えなかった。

律の目許は涼やかで知的だ。利発な雰囲気が漂ってさえいる。
体型はまだ幼い硬さを残している。
ほっそりした足や、気持ち程度に膨れている胸は娼婦としては抱き心地が不足しているかもしれない。

けれど律はその硬さの中にしなやかさを宿していた。
言うなれば「痩せている」というよりは「細い」体をしている。
しなやかな快活さを感じる事はあっても、やつれた骨張りを感じる事はない。
そこが主人の気に入ったから、律の今の生活がある。

もちろん律が先天的に持っている目許や体型だけで主人が完全に満足するか
といえばもちろんそうではない。
専属の少女娼婦を買えるだけの財力と境遇、そして酔狂があるのだから、
それ相応の後天的で個人的な魅力の付け足しをするのは当然である。

律のおかっぱ頭や、質素な和服は主人に言われてそうした。
爪の長さも娼婦として差し支えのないぎりぎりの長さで保つ事を義務付けられたし、
成長による食い止めようのない変化以外に体型を崩してもいけなかった。
あるいは逆に主人が求めるなら体型を変えなければいけなかった。

金で買われた愛玩に否定する権限はない。主人の期待に沿う事が愛玩の役割の全てだからだ。
主人は帯妻者だが、律に倫理的、社会的な発言をする自由などもちろんあるはずはない。

自分の体に侵入される事や、主人の体をまさぐらなければいけない事などには二ヶ月ほどで馴れた。

体の接し方や作法、技術などは発展途上だ。
やはり律はまだ少女であるから細かな機微を体得するのは無理な事であるし、
なにより律が行為に手馴れ過ぎてしまう事を主人自らが忌避した。

少女特有の羞恥や気まぐれ、もしくは厭世観、未熟さなどとの葛藤は常にあるにせよ、
専属娼婦である日常は今の律の中で苦痛な事ではなくなった。

ただひとつ、接触恐怖症にかかる事と引き換えに。

娼婦が接触恐怖症では商売にならないのだが、律のそれは仕事中には発症しない。
奇妙な事に律は、ごく自然な、性的ではない接触に対してのみ恐怖を抱くのだ。

例えば主人が事に及ぼうとして律の手を握った時は、何も感じない。
その手が男の脂にべとついていても、律は諦められる。
背後から熱っぽく包み込まれたとしても恐怖は感じない。
その時顔にかかる呼気に食事の匂いが生々しくこもっていても、そういうものだと受け入れられる。
体に侵入されても、律は教え込まれた発声や吐息、身のよじり方で性感を享受する。
男の匂いや湿り気も受け入れられる。

しかし廊下ですれ違うなどの何気ない接触に律は恐怖する。
夜ごと身体を擦り合わせている主人であっても。

接触すると思う事がそもそも怖いから、律は不自然に、必要以上に他人と間隔を取る。
万が一接触してしまうと、律はまるでそこから恐怖を追い出そうとするかのように目を見開き、
そこから追い出した恐怖が再び自分の存在に気づいて戻って来てしまわないように体を硬直させて息をひそめる。
身体的、精神的な不安定さに起因して恐怖の度合いがひどい時は、
なすすべなくその場にうずくまってがたがたと震えてしまう事もある。

幼い精神が娼婦という現実を受け入れるために、それは必要な防御方法だったのかもしれない。
性的接触が与える恐怖と、通常の接触が与える安堵感。
律はその相関関係を入れ替えてしまったのかもしれない。

律にとっては性的接触こそが日常であり、存在理由だったからだ。

主人はそんな律の捻れた性質に更なる歪んだ満足を覚えたようで、
財力に余裕があるにもかかわらず、律以外の娼婦を買おうとはしなかった。

ある日、主人が律をむさぼったままの姿勢で事切れた。
律におおいかぶさったまま、まるでぜんまい仕掛けの玩具が止まるように、主人は動作を止めた。
そして心臓も止まってしまった。

死体の一部が自分の体内にあるという認識は多少の衝撃を与えた。
けれど腹上死は現実感に欠け過ぎていたから、心的外傷を与えるには及ばなかった。
それは幸いだったといえば幸いだったかもしれない。
何にせよ突然目の前に訪れた死の情景は、観念的で高尚過ぎたのだ。

律には、自ら支える事をやめて突然増した主人のぶしつけな重さや、
体内で萎縮してゆく性器の方が現実的だったし、わかりやすかった。
主人の死を認識した時、最初に頭に浮かんだのは「奥様にお知らせしなければ」
というひどく冷静な対処だった。

律は主人を失った。

主人の倒錯した性欲と、あまりに身勝手な最期に憤懣やる方なしといった表情の夫人は、
それでも律に手切れのはした金をよこした。
同じ女として律の境遇に同情したのかもしれないが、
あるいは単に契約どおりの処理をしただけなのかもしれなかった。

だが夫人の心情と表情がどうであれ、これからの律には関係ない。
もちろん一介の娼婦が葬儀に参列するわけにも行かないし、
万が一参列を許されても特に感慨は無かったかもしれない。

十四の律にとって雇われていた二年間は、凍結されて模型のように現実感のない時の塊だった。

律は所属する場所を失い、二年ぶりに市井へと戻ったのである。
突然自由の身になった律は、ふと見上げて気付いた空の広さに、
かえって窮屈さと漠たる不安を醸されていた。


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