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桐葉は自分の部屋で放心していた。記憶の空白が与える余波である。
買物から帰り、シャワーを浴びて頭のなかのもやもやとしたものを一緒に洗い流したつもりだったのだが、気が付くと惚けている。何せ室内着を着たあとに後前が反対だということに気付いたくらいなのである。
桐葉の着ている室内着兼寝間着は、この時代の典型的なものである。一見すると白だが、影になる部分が薄紫色になることで極薄い紫に染められていることが分かる。光と影と色彩、その三者の加減を考慮した意匠のそれは、帯なしの浴衣、或いは着物のような前あわせのワンピースと描写するのが適切な服である。
桐葉の豊満さとは程遠い滑らかなからだの線はこの服とよく似合った。桐葉はあまり女を感じさせない娘であるが、その分だけ逆にたおやかさが醸されて、裾からにゅうと出た素足も嫌味がない。
現在洋風の意匠は人々の嗜好から外れていて、最近発表される装身具は和風な雰囲気を漂わせたものが普通になった。しかし全ての洋風な意匠が一掃されてしまったわけではない。これはこの時代の全てのものに当て嵌まるのだが、人々は西洋の科学的探求心、言い換えれば抑圧のない好奇心と、和風の調和の意識、和の感覚を人類の歴史上かつてないほど理想的に融合させ始めている。尤もそうでなければ紛争のない地球など実現できないのだが。
技術の発達はもう十分果たされてしまった。その技術を土台として、いま人類は意識の発達を始めたのだ。
二十世紀の末期から「個の時代」という意識体系を発達させてきた人類は、いまもうひとつ上の意識段階に入ろうとしているのだ。
それはまず幸福追求の権利への疑いから始まった。ヒトが群れなければ生存できない以上、無制限の幸福追求などは幻想でしかない。ヒトにとどまらず生物凡ては他者の犠牲のうえにしか存在を維持できないのだ。
悲観的な見方ではある。しかしこれは厳然とした事実であるから直視しなければならない。悲観的なことを全て無視して楽観する事と、全肯定して内包した上で楽観する事とは明確に異なる。無知な者が何も分からずに笑っているのと、酸い甘いを噛み分けた人物の浮かべる笑顔との違いだ。
幸福追求という概念の美しさのみを見、それが孕むエゴイズムをひたすら無視し続けた時代はようやく終わりを告げようとしていた。
だから医学的に可能となった延齢処置を禁止しても人々は納得している。死ぬべくして生まれたのだから、死ぬことを拒否することはエゴイズムだ。また人はそれぞれ使命を持って生まれてきたという概念も空虚なものだ。生まれてきたことに意味などはない、生まれるべくして生まれてきた人間などはかつてどこにもいない。偶々生まれてきてしまった人間がいるだけだ。
悲観的に見える。
しかし幻想と本質は違うのだ。理想に取り憑かれた上での楽観と、真実を見据えた上での楽観を区別できるか否か、そこには紙一重に見えるがその実計り知れない程の隔たりがある。知ったつもりと、知っている事との違いだ。
これは自我の否定というのではない、自我の恒常性や永続性、或いは絶対性を否定するという認識だ。例えるなら点線のようなものである。点線は接視すれば非連続な点であるが、我々はそれを一本の直線として認識する。点で在りながら線でもある。「個の時代」は自我を点線ではなく、実線として捉えていた時代だった。
自我は肯定される時もあるし否定される事もある。肯定と否定を波のように行き来する。肯定されっぱなしということはないし、否定されっぱなしということもない。従って自我とは肯否定されるものであるのと同時に、肯否定されないものでもある。点でありながら一本の直線でもある、自我とはそのような性質を持つ。
この時代に格闘技が流行り始めたのは、その行為が他者の否定であると同時に肯定でもあるからだ。相手を打ち負かそうという意識、これは明確な他者の否定である。この否定の意識を一方的に相手にぶつけ、自らは傷つくことから退いてしまおうとする時、これは戦争行為になる。長距離弾道弾の起動スイッチを押す指のことである。相手を否定する事一辺倒で、相手から否定されることを忌避する事は忌むべきことだ。しかし互いの発する否定の意識を互いが受け容れ肯定し合う時、それは決闘となる。傷付け合う事をお互いが認め合う場、否定と肯定が同時に存在する行為。礼の体現でもある。まさに時代と呼応しているのである。
この時代に核兵器は、だから廃棄された。抑止政策というのは否定の意思を相手にぶつけ、その相手もまた否定の意思をぶつけ返す。そしてぶつけ返された否定をまた否定し…という否定の無限螺旋である。新たな成長段階に入った意識にとって、これほど稚拙で非建設的なものはない。
この時代の人々は大なり小なりそのような認識を持っている。
確かにそれは一時的なものかもしれないし、凡ての人々がそのように自我と他者との調和をとれている訳でもない。街角には浮浪者の姿もある。貧富の差もたしかに残っている。単なる兆しで終ってしまうかもしれない。しかしヒトが二足歩行という革命的な物理的進化をしたように、革命的な意識的進化が起こる可能性はある。
そんな時代の人々の一部、桐葉はしかしまだ少女でしかない。発展途上の彼女は調和のとり方を学んでいる最中だ。無闇に心を乱される事もあれば、突然何かを悟ってしまう事もある。
尤もいま桐葉は放心していて、そのどちらでもないのだが。
「考えても記憶の空白が埋まるわけではないし、第一いまはまともに考えがまとめられない」と思い至り、「取り敢えず、寝よう」という結論に達した。
窓から差し込む朝日の、白く、体積を持ったような光の角柱が徐々に角度を変えて行く。すやすやと無垢な寝息をたてている桐葉に、その光柱が音を立てずに寄って行く。誰かを驚かそうとして、抜き足差し足忍び寄る無邪気な子供の歩みを彷彿とさせる。
無邪気な白光は桐葉の寝顔を少しずつ照らして行く。
「う…ん…」
喉奥で発声して、桐葉は夢の残り火を反芻しはじめる。しはじめるとすぐに残り火は燃えかすすら残さず霧散してしまい、ああ今日も、という喪失感が小さく顔を見せる。
寝返りの延長で寝台から抜け出て、しばらく微睡みと現の境を行き来する。寝間着の裾が乱れたまま寝台にだらしなくもたれ掛かって、なおかつ寝呆けた表情をしているからとても他人には見せられない姿だ。しかし清澄な朝日は真っ白なシーツと手を携えて清々しい光の演出をしようとするから、ある種シュールな情景を描きだしている。
漸く目の覚めた桐葉は、朝食の準備に取り掛かる。取り掛かったのはよいが、今朝は何も作る気力がない。食欲はあるのだが如何せん身体を動かすのが難儀である。なるべく使わないようにしているのだが、今朝はレトルトで済ますことにした。レトルトといっても添加物などは一切入っていない。むしろへたに料理をするよりはよほど良いものが出来上がる。食品の保存技術はその需要の高さを原動力にして驚異的に発達したからである。むざむざ食品の風味を劣化させる添加物はすでに過去のものとなっていた。
では何故桐葉がレトルトを拒否するかというと、これはまったくの好みの問題である。便利さを至上とする時代ではないのだ。たしかに一時期栄養カプセルだけで三食を済ませる少女たちがマスコミを騒がせた事があった。栄養価だけなら寧ろ普通に食事をするよりも理想的な補給行為だ、しかし食事というのは補給ではない。食事を補給行為に貶めているうちは、文化的な生活とは程遠いのである。
桐葉はペーソスを調味料にしてレトルトの食品を食べ終えた。
朝食を片付けて一息つく。外出する気分ではないので、桐葉は電子雑誌のページをあてもなく繰っていた。
雑誌といっても紙製ではない。文庫本サイズの携帯端末である。そこから発振される不透明ホログラムディスプレイは最大二平方メートルまで拡大が出来、同時に三十の異なった画面を表示出来る。
日常生活で必要な情報はおろか、学術的に必要な専門知識も大抵は雑誌で識ることが出来る。今や携帯情報ツールという言葉は死語であり、その言葉の概念は雑誌という単語のなかに内包されてしまった。視覚情報の無節操な集合を紙という媒体で綴じたものを雑誌と二十世紀には呼んでいたが、今はそれに聴覚情報を加え、情報そのものの絶対量を指数関数的に増大させた物を雑誌という。視聴覚情報の塊を提供する媒体を雑誌と呼んでいるのである。
集積回路の発達は留まる事を知らないようで、磁気記録媒体、生体記録媒体、原子記録媒体と進化して行き、現在、情報の記録媒体はクウォークを用いるに至っている。クウォークはその三個を最小単位とする性質から、情報のオン、オフという二進法の他に、もうひとつの状態、便宜的に『半ばオン』或いは『半ばオフ』と呼ばれる状態の記録を可能にした。したがって現在デジタルという単語は便宜的に0、1、2(或いは0、0.5、1)を基本とする三進法を意味するのが普通になっている。 情報の最小単位の増加によって、情報の集積度は単純計算でも四桁増加した。その後の技術革新によって、その数値は指数関数的に増加したため電子媒体はそのサイズを極端に小型化されていった。
また、この三進法に加えて現在研究が進んでいるのが、それぞれのクウォークが持つ対のクウォークと連絡を取らせることによって二進法の情報管理をさせ、それを前出の三進法と混在させて利用する「複合デジタル」という技術である。理論的な立証は終了しているため、そう遠くないうちに実用化されるだろう。
「複合デジタル」技術を利用しなくても、桐葉の持っている電子雑誌も実際は一立法センチまでダウンサイズすることが可能だ。わざわざ文庫サイズにしているのはあまり小さすぎると使い勝手が悪くなるばかりか、紛失する可能性も高くなるからである。その他の容積はスイッチやキーの類、不透明ホログラムの発振装置と耐熱及び耐衝撃の緩衝材に充てられている
桐葉の読み込む記事は今週の天気、今日のエーテル仮想量子占い、連載アニメーション等々、殆ど毒にも薬にもならないものばかりである。どんなに情報が豊富でも一個人が見ようとする情報は、そんなに多岐にはわたらない。超高度な情報化社会に於いては、情報を漏らすまいと構えるよりも、情報を積極的に切り捨てようとする態度が必要とされる。二十世紀前半の情報量をコップの水に例えると、二十世紀後半は差し詰めドラム缶いっぱいの水量になる。高度情報化社会と呼ばれた二十世紀末であってもダム一つ分であろう。しかし現在情報はまさしく海で、その水を全て飲むことは出来ないのだ。
また情報の入手が簡単になったため、世代的に古い情報というものがなくなった。若いのによくそんな古い言い回しを知っているな、という台詞は聞かれなくなっている。情報の時空間的制限が限りなくゼロに近くなっているため、古い情報であっても手に入るのだ。むしろ今この瞬間に発生した情報以外は凡て古い情報という一括りの相を持つといっても良い。
それに情報の入手がここまで簡単になってしまうと、情報という概念そのものの価値が薄れてくる。二十世紀のように、最新情報というのがその内容如何に拘らずその存在自体が価値を持っている、というような事態は起こらない。
むしろ情報が隠蔽されているという状態は、情報が開示されている状態よりも情報価値が高いという逆説的な現象も起こっている。見たくもないものまで見ようとする時代ではなくなっているのだ。情報を見えなくする、情報をないものとして扱う等、「〜がない」という欠落や「〜ではない」という否定概念そのものに価値を見いだすという奇妙な価値観までもが生まれつつある。
全く面白くない芸人の芸が、全く面白くないが故に面白く見える事がある。二十世紀の観客はその芸人を一過性のものとみなすが、この時代はその芸人に「面白くないというのはどういう事なのか」を追求することを期待する。「この芸人は我々がつまらないと感じることを見事なほど次々提示する、ここ迄つまらない事を探して来るとは何と面白い芸なのだろう」という意識が働く。面白くないという負の事実が、面白いという正の価値を持つのである。
桐葉はそんな時代の真っ只中に生きているから、以上のことを理屈ではなく気にも留めないくらいに当たり前のこととして受け容れている。
もう小一時間くらい雑誌を眺めていただろうか、気が付くと昼になっている。
あまり空腹感はないが朝食のレトルトの埋合わせとして、昼食はきちんと料理することにした。
「さて」
と桐葉が立ち上がった刹那、玄関の呼び鈴がなった。
桐葉がモニターで確認すると、そこには昨日の少年が立っていた。一瞬躊躇する。彼の顎に治療のあとが見られたからである。恐らくそれは自分のせいなのだ。
「何の用」
桐葉は意識したわけではないが声が素っ気なくなっている。どう対応したらいいのか分からないのだ。
「あーと、その」
宿馬は間抜けた返事をした。宿馬もどう切り出していいのか迷ってしまったのだ。「取り敢えず開けてくれないかな」
宿馬の多少無礼な申し出に桐葉は逡巡した挙げ句、ドアを開けた。宿馬の持つ邪気のなさと、桐葉自身の好奇心がそうさせた。
「きのうは…」
桐葉はそこまで言って口篭もった。どう繋げばいいのか分からない。
「そう、昨日の事で話があるんだ」
快活な少年の声だ。自分をふっ切るように宿馬は頭をひとかきして、
「いいセンスしてるよ、ホント。全然かなわなかった。今日来たのは君がどんな訓練してるのか興味があってね、あ、別に下心とかそういうのはないんだ。格闘家としてさ、君の動きの切れに惚れたっていうか。それでネットで住所調べて、何もデータなかったから苦労したけどね」
と一気に自分の胸の内を掃きだした。
「あの、何の…話を…」
桐葉の微妙な両目の曲線は、今明確に困惑を描いている。これ以上干渉されるなら帰ってもらおうと思った。元々人と接するのは苦手なのだ。
けれどこの少年は自分の記憶の空白を埋めてくれるかもしれないのだ。桐葉は考え直した。
「あの、玄関じゃ何だから…」
「ありがとう」
全く屈託のない声だ。桐葉はどうも調子を崩される。
取り敢えず茶でも出さねば失礼だろうと桐葉はいそいそと支度をしていた。
「ねえ、君の名前まだ知らないんだけど、教えてくれないかな」
「私も、あなたの名前知らない」
宿馬は一瞬、え、という顔をした。決闘の時自分は確かに名乗ったのだ。それは習慣付けている事だから間違いない。まあ忘れてしまったのだろうと思い至り、
「じゃ、改めて、スクマです。漢字では宿に馬。年は十七」
「あ…私はキリハ、木偏に同じの桐に葉っぱの葉」
「桐葉、ね。年は?」
「え?あ、っと、十四…多分…」
「『多分』って?」
茶が入った。それを出しながら桐葉は憂欝な視線を泳がせる。
「どうしたの?」
宿馬が促す。桐葉は逡巡した挙げ句、
「よく分からないの」
この情報化社会で?等という返答はまず浮かんでこない。情報集めに躍起になる時代ではない。
「なんで」
「…覚えてないの、その…記憶がないの…二年くらい前に、気付いたらこの部屋にいて、その時十二歳だったような気がするから…今きっと十四」
宿馬は呆気にとられた顔をして桐葉をまじまじと見た。嘘を吐いているようには見えないから恐らく本当のことなのだろう。しかし一瞬で理解できるような話ではないし、理解できても納得できない話でもある。
「記憶喪失ってやつ?そういうのよく分かんねぇけど」
「……ん……たぶんそうだと思う」
俯いて桐葉は答えた。そうしていると桐葉は消え入ってしまうような儚さを醸す。
「じゃあ俺と決闘したことは?」
はっと桐葉は顔を上げた。目が見開かれている。
「やっぱりその怪我は私が…?」
「え?ああ、これ?そうだけど、いい勲章だよ」
「…ごめんなさい…私病気みたいで、時々記憶が莫くなるの」
「俺と決闘してる時もそうだったわけ?」
「うん」
何ともいいがたい空気が流れた。
「あの、私どうだった?どうなってた?私、宿馬…さんが」
「呼び捨てでいいよ」
「宿馬が決闘してくれって言ったところ迄は憶えてるの、それで私決闘なんかしたことないって言ったと思うんだけど…」
「うんそう言ってた。でもその後かな、目付きがいまと違って、んー、何ていうか冷たい目だった。俺の実力を測定してるような、そんな感じ」
「で、私勝ったの?宿馬に?」
「ものの見事にね。一発も当てられなかった。それどころか失神して気が付いたら病院だった」
「憶えてない。気が付いたら道に立ってた」
しばしの沈黙。
「多重人格なのかなあ…私…」
「そう言えば気が付いたらこの部屋に居たって言ったよね。桐葉、その前の記憶は全然ないの?」
「うん…名前くらいしか憶えてなかった。だからここが自分の部屋かどうかもわかんないの、本当は」
「気味悪いな」
「端末を見付けて、それで色々この近所の事とか憶えて。でも何も思い出せないまま二年経っちゃった」
「医者とかには?行ってないの?」
「病院とか、嫌いだから。そんなにお金もないし」
「でも、不安じゃないの?」
「馴れちゃったし、いまは何の不便もないから」
「ふぅん……両親とかは?」
「いないと思う。生活費の振込みに孤児手当って書いてあったから」
「じゃそのルートで両親の名前とか判るんじゃないかな」
「なんか、今更って気がするからやらなかった。別に不自由してないし…」
「淋しくない?」
「別に、独りで居るほうが好きだから」
少し間を空けて、宿馬が溜息混じりに言う
「クールなんだな。浮き世離れしてるっていうか。…みっつ年下とは思えない」
「そうかな…」
「だって、決闘の技に惚れ込んで来てみれば決闘の記憶はない、過去もないし、親もいない。それで別に不自由してる訳じゃないから淋しくないって、そんなに割り切れるもんかな」
いささか無思慮な宿馬の発言に桐葉は一瞬引く。そして
「そ、そんな事関係ないじゃない。私が気にしないんだからそれだけの事でしょう。私が淋しくないなら、他に誰が寂しがるっていうのよ」
一気に感情を吐露して、桐葉は我に返る。
「…あ…ごめんなさい…」
「いや…」
空気が鈍色になる。かさりという衣擦れの音すら煩い感覚。
そんな空気の仮想的な重さに、まず耐えられないのが宿馬である。
「まあいいや、わかんない事考えてもしょうがない。桐葉が淋しくないって言うんなら淋しくないんだろうし、桐葉が気にしないんなら俺がどうこう言う筋合いはないか。俺が興味あるのは君の技だしね」
「え、あ、…ふぅん…」
あまりの非連続な場の流れに桐葉はよくわからない頷きをした。
「…でもその技も教えてもらえそうにないんだよな…」