5
二年前
「霧端(きりは)、そっちの通路に入っちゃ駄目だ」
「何で」
マサキの父親然とした言葉に十二歳になる娘はぶすっと言い返した。そろそろ父親というものを意識しだす頃だから、頭ごなしの禁止は癇に障る。
「行っても立入禁止だから入れないし、それにここは家じゃない、お父さんの研究所なんだから何処にでも行っていい訳じゃないんだ」
「重要機密ってやつ?」
「そんなところだ」
重要機密という危険な匂いのする言葉は霧端の好奇心をいたく刺激する。超高度情報化社会の時代にあって重要機密という言葉は時代錯誤に聞こえるかもしれないが、情報の開示技術が上がれば上がる程情報の隠蔽技術も比例して発達する。この堂々巡りは情報化社会が始まった時からついて回る宿命のようなものなのだろう。
霧端はこの研究所に顔パスで入れる。初等教育も特例としてここで受けている。というのもマサキがそこの重要なポストに就いていればこそであるが、霧端はあくまでも部外者であるから独りで勝手に歩ける部分は限られていたし、例えマサキの同伴でも立入禁止の区域は当然存在する。
利根生体工学研究所と名付けられたこの研究所は、その名の示すとおりマサキの伯父にあたる利根雄(とね ゆう)がその圧倒的な財産にまかせて作り上げた研究所である。その研究所の主な目的は生体工学の効率化と産業化の研究である。
磁気に頼っていた記録媒体を生体部品に交替させ次世代化を図ったのは誰あろう利根雄その人である。
生体記憶媒体は記憶容量が桁違いに大きい代わりに、その構成要素が蛋白質であるため温度変化及び化学変化に弱いという欠点を持つ。従ってその実用化は十年また十年と先送りされていた。この行き詰まりに一石を投じるべく雄は一大プロジェクトを企画し、電子工学の歴史の一ページを記したのである。
残念ながらこの生体記録媒体は何年もしないうちに原子記憶媒体に取って代られてしまったが、彼のプロジェクトの副産物である利根生体工学研究所はその後も運営され続け、生体工学の発展に大きな貢献をすることになる。医療技術の発達もこの研究所なしには考えられなかっただろう、それほどの社会貢献を利根雄は成したのである。
「さて霧端、お父さんは部屋に戻るけどお前はどうする」
「うんとねぇ」甘えた声音で逡巡し「先に帰る。お父さん待ってたら何時になるかわかんないから」
と少しむくれた風を装って応えた。
「そうか、じゃ今日の夕飯はカレーでもお願いしようかな」
「好きだねぇカレー。子供みたい」
「子供らしい純粋で飽くことのない好奇心を持ってなけりゃ有能な研究者とは言えないのだよ霧端君、子供の君なら解るだろ」
同僚に話し掛けるような口調で話しながらも「子供」の部分を強調して発音する。霧端をからかうのはこれが一番効果があるのだ。
「何よその刺のある言い方。手抜きしてレトルトにしちゃおうかな」
「そりゃ困る」
マサキはここで折れてやる。
「ま、いいや。…あ…」
霧端はマサキの背後に伸びている通路の向こうに人影を見付けて口篭もった。四宮紗絵の白衣を纏っているくせに官能的なシルエットが霧端の視界に入ったからである。霧端は紗絵の目が嫌いだ。突き刺さってくる冷徹な光が不快だ。飲み込まれてしまいそうな憎しみの波動が怖い。なぜ私が憎まれなければならないのだろうと思う。
霧端は特に嫌がらせをされたとか冷たくあしらわれたという憶えはなかった、客観的に見ればこれ以上はないほど有能な世話役にすら見える。しかし紗絵は霧端への接し方とは裏腹の視線を投げ掛けてくるのだ。
「…じゃあね、カレー作って待ってる」
霧端は半ば逃げ出すようにその場を離れた。
研究所の中央出口に向かう道すがら、霧端は普段決して開くことのない扉がひとつ開いているのを見付けた。
猫のように無邪気な好奇心が霧端の心を瞬時に満たす。霧端言う処の「重要機密」がそこから漏れだしているような気がする。
ごめんなさいここまでです(T_T)