情事の残り火がまだまとわりついている。紗絵は寝台に腰掛けて髪を梳っていた。マサキはまとわりつくシーツと残り香を感覚の片隅で意識しながら、紗絵の裸の背に視線をなぞらせていた。

 寝台脇の照明が柔らかな橙色を、窓から差し込む月光が無機的な青とを投げ掛け、その背中を包み込んでいる。完璧な曲線だ、しかし現在の美容整形は、その気になればDNAレベルでも行なえるから素直に感動できるかどうかは別である。勿論整形したかどうかを尋ねるのが最大の非礼であるのはいつの時代も変わらない。

「教授」

紗絵の背に広がる照明の橙と月光の青が柔らかくその比率を替える。紗絵が肩ごしにマサキを見る。紗絵の目は冷たい。物事の道理を見透かす無機的な光を投げ掛けてくる。マサキは情事の間でも幾度かその光を投げ掛けられる。有機的な身体の絡み合いと熱の合間に投げ掛けられるそれは、熱を持たないにも拘らずマサキのなかに灯を点す。

「教授」

先程よりいくぶん感情の篭もった声でもう一度呼ぶ。マサキの方に幾分寄る。橙の比率が大きくなる。

「どういう感覚なのですか」

「何が」

「あの子を監視するというのは」

「監視?」

「あの子の親として?それとも研究者として監視しているのですか?それともエロティックな対象として?」

「監視、というのは的確ではないね。子を見守るのは親の義務だ」

「何が起こるか分からない街に放しておくのは不安だ、と」

「何が起こるか分からないから街で生活させているのだが」

「迷宮に封印された半牛人、あの神話は何のメタファーなのでしょうね」

紗絵がすっと青の領域に入る。

「私は、悩んでいます」

「何を」

「あのように不確定要素の多い外界に実験体を放しておくことを、です」

マサキは不快感を眉に表現しながら

「何度も言うがね、桐葉を『実験体』と呼ぶのは止め給え」

と忠告し、続ける。

「それに不確定要素が多いからこそ実験室で育てるのをやめたのだ。これは多くの失敗のうえに導かれた結論だ。虚ろな魚の目は嫌いなのだよ、今までの失敗作達のようなね」

「それだけですか」

紗絵の声が冷たくなる

「実験体……桐葉の保護と管理費などを比較考慮すると、私はやはり」

「不確定要素がどれほど人間の形成に影響を及ぼすか、複雑系やカオス理論を少しでも齧った事のある人間なら分かるはずだ。況して大学時代きみの専攻科目はAI理論じゃなかったかね。そんな温室育ちの科学者のような意見が君から出ること自体が私には不思議だがね」

「ですが」

「基本理論は君が組んだのだから、もっと自分を信じたらどうかね」

「ご心配には及びません」

「それに、桐葉は私と君との娘と言っても過言ではないのだよ」

「わかりませんね」

「何故」

「私は子宮を歪めたことがありません」

 ふっとマサキが口の端で笑う。

 紗絵が立ち上がる。裸身が青の光に占領される。気怠さをうなじと背に浮かべ乍ら浴室へ歩を進めて行くのをマサキは橙の領域から見送る。

 途中、紗絵は壁に掛かった写真のプレートに視線を流す。そこには童話の城を背景に、マサキと妻、そして目元が桐葉に似た少女が写っている。

 そのすぐ下には、「霧端(きりは)12才、於ディズニーランド2」と書かれている。

「俗だこと」

 紗絵は呟いて浴室に入った。

 紗絵の存在感が急速に失われて行く寝台で、マサキは天井を見上げ、識欲と色欲のパートナーを思う。

 紗絵という女性は、氷の属性を持っている。言動や、判断、物腰の全てが鋭利な冷たさを持つ。何故そのように冷たいのかは分からない。けれど親交が深まるにつれマサキは紗絵の内面、その最深部に溶岩のような熱い粘性の流動を秘めているということに気付いた。そういえば南国の火山神も女神だった、と何となく思い当ったにも拘らず、紗絵に実際に述べた感想は

「君は氷付けの魔法瓶のようだね。冷たいと思って中に触れたら大火傷だ」

というものだった。

「あなたに女を口説くのは一生無理でしょうね」

と紗絵が応えたのも無理からぬ話である。

「では君は何に口説かれたんだ」

とマサキが切り返すと紗絵は冷たくも蠱惑的な流し目で

「あなたのことば以外に、です」

と答えたものだ。

 言葉というのは万能ではない。個々人の心の表層しか表現できない。そのもっと深いところに渦巻いている個人の本質というのは、いかに試行錯誤したところで言葉へ変換することは不可能だ。

 なぜなら言葉は非常にデジタルな側面を持っている。言葉は共有概念を表すことが第一義である以上、ひとつの単語の意味概念に幅を持たせる事が出来ない。これが心の持つアナログな側面と相反する。
 加えるならば言葉はデジタルといっても疑似デジタルである。なぜなら一つの単語に対して各々が持っている意味、イメージは普遍ではないからだ。たとえば学生時代という単語を引き合いに出したとき、この単語はポジティヴだろうかネガティヴだろうか。答えは各々がどのような学生生活を送ってきたのか、その履歴に依存するため単純に0と1で言い表わすことが出来ない。

 紗絵の、あなたの言葉以外に口説かれたのです、という台詞は素っ気なく見えるようで実はこの上ない賛辞であるともとれる。マサキはそう思う。しかし本心は分からない。そう簡単に人の内面は分からない、本人ですら分からないものを他人が分かるはずがないのだ。人と人とが分かり合うというのは共有概念がどれだけ近似値を持っているのかという事に過ぎない。

 そこまで考えて、何を青臭い、とマサキは苦笑いをした。三十も後半にさしかかった男の考えではない。

 浴室から聞こえるシャワーの音を右から左に聞き流しながら、マサキは欠伸を一つした。

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