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第二テクノガーデンの周囲はにわかに騒がしくなってきた。喫茶店にたむろしていた女の子たちも、路地裏の浮浪者も、仕事帰りのサラリーマンもひとごみを作り始めた。仲介人は決闘が始まったと分かってもわざと五分ほど遅れて到着する。野次馬が十分集まるための時間稼ぎと決闘する前の準備を二人にさせるためである。
少年は来ていたコートを脱いでタンクトップとゆったりしたイージーパンツという出で立ちになった。タンクトップの背にはハングルで格闘を意味する言葉が書いてあり、イージーの左足には彼の名前が同じくハングルで書かれている。それはスクマと読めた、漢字では宿馬である。
宿馬は桐葉に握手を求めた。
「俺は宿馬、よろしく。申し出を受け入れてくれて本当にありがとう」
しかし桐葉はそれを黙殺した。先程と目付きが変わっている、少し鋭くなった気がするが獲物を狙う獣の目というのではない。まるで監視カメラが見据えているように感情のない二つのレンズが宿馬を捕らえていた。宿馬は自分の筋力や持久力を具体的な数値で観測されているような気分になり少し身震いした。
「その子は桐葉というんだ」
マサキはモニターに写る宿馬に囁いた。もちろんその声は彼のもとには届かない。 紗絵が熱っぽくマサキの首に腕を回して絡み付く。髪の香りがマサキの鼻孔をくすぐった。
「よろしくね、宿馬くん」
小悪魔のようにいたずらっぽく言う紗絵の横顔はモニターの青白い光を下から受けて凄味を増し、マサキは紗絵から視線が外せなくなっている自分に気付いた。少し慌ててモニターに視線を戻してマサキは言った、
「桐葉、五秒だ」
仲介人がようやく到着してお決まりの口上を述べる、
「この地区を担当しております御堂寺決闘仲介人、識別番号は30569です。御堂寺データバンクにより、甲のレートは八、乙のレートは三とさせていただきます」そう言うと宿馬の頭上には八、桐葉の頭上には三の数字のホログラムが浮かんだ。観客はこれを見て掛け金を投票する。
「今回両者に素手の格闘家の自覚ありとみなし、武器の使用は不可と致します。それでは掛け金を御送信ください。なお安全確保のため半径八メートル以内に立ち入らないでください」
宿馬が半身に構えて呼吸を整え、踵を紙一重で浮かせる。右手は胸の前に、左手は前方少し下に構える。
桐葉はほぼ真横を向いて背伸びのように踵を上げる、両手はほとんどだらりと下げてぱっと見には戦う意志のないようにも見える。
「時間無制限一本先取」そこで仲介人は間を置く、そして「始め」
空中に顕れた「始め」の文字に触発されて観客がどよめく。
宿馬は軽いステップから前の足、左足で突き蹴りを上段に放つ。観客が息を飲む、足が桐葉の顔を貫いたように見えた。しかし桐葉は何気ないしぐさでかわしていた、髪が軽く揺れる。顔と足の間隔わずかに三センチ。
格闘は時空間の全てを有意義にする行動である。
何もない空間というものは通常空虚なものとして認識される。何かをその空間に当て嵌めないことで我々は意味をみいだす。しかし格闘においては空間に何かを当て嵌めることによって意味を見出すのである。
桐葉の作った三センチという空間はそれ以上でも以下でもいけない。目下の状況においてもっとも無駄の無い空間なのである。
宿馬はすぐさま右足で回し蹴りを中段に放つ。申し分ないスピードとタイミングだったが宿馬の足は空しく宙を切った。
桐葉は咄嗟にしゃがんでいた。とても人間の反応速度とは思えない。宿馬は蹴りの弾みで着地際にスキをつくった。
動作とそれに必要な時間。宿馬は時空間の意味を喪失した。
一方桐葉は十分に力を溜め、弾丸のように前方に踏み込む。
動作の速度と時間と距離。全ての要素が有意義に昇華する交点、その一点をめがけて桐葉は突進する。
正確に肘を宿馬のみぞおちに埋め込んだ。宿馬が前に少しのめって顎ががら空きになるのを桐葉の感情を欠いた二つの目が捕らえる。
運動のベクトル、意識のベクトル、予測のベクトル。測量的なもの、時空間的なもの、そして感覚的なものも含め、全ての方向量を持った要素を総称して気という。格闘家はこの気を読み、時にぶつけ、時に逸らす。
桐葉は絶妙の身のこなしで体を伸び上がらせて掌底を宿馬の顎へと突き上げる。時空間を全て有意義にし、気の流れを完全に掌握した瞬間だった。
宿馬の身が浮いた、脳震盪は確実に起こしたはずだ。仰向けに倒れた宿馬は失神していた。
仲介人の「終了」の声がマサキの覗くモニターごしに聞こえ、同時に「終了」の文字がホログラフで宙に顕れる。それに同調してモニターの隅に表示されていたクロノメーターが止まる。
00:06:578
「1.57秒の超過か…」
特に残念がる様子もなくマサキが言う。
「反応速度、筋伝達速度、動作修正効率など、すべての数値は前回よりも五から十三パーセント上昇しています。成長率は満足のいくものだと思われますが」
耳許で囁かれる紗絵の報告に、ふむ、と素っ気なく応えながらマサキは暫く思いを巡らせ、結果、
「まだ五秒は高望みだったか」
と結論付けた。
「焦ることは、ありませんよ」
沙絵が噛んで含めるように間を持たせて言う。嫌味さはない。自然な声の抑揚だ。そしてマサキの頚に絡み付けていた腕を解く。紗絵の熱と呼吸、重みと髪の香りが甘ったるい感覚をそこに残す。
「ただ今を持ちましてこの決闘を終了致します。結果は乙の勝利。ただ今から配当金の送信を行ないます。五秒ほどお待ち下さいませ」
極めて無機的に仲介人が口上を述べあげ、観客たちは各々が賭けの結果に一喜一憂した。仲介人は続いて宿馬に応急処置を施し、程なく救急車が到着した。彼の治療費は賭け金の中から支払われる、従って宿馬の経済的負担はない。観客たちが自分勝手に感想を述べ合いながら散って行く、極めて日常的な風景だった。
桐葉は構えを解いた無防備な直立姿勢でその場に立っている。
紗絵のしなやかな指先が慣れた動作でキーボードの上を奔り、最後に実行キーが軽やかに叩かれる。一時の熱狂が通り過ぎ、倦怠感が浸み出し始めた路地で桐葉が自我を取り戻す。
「わ…たし……」
辺りを見渡す。
「また…誰かを傷付けた……?」
桐葉の生気を取り戻した両の瞳が神経質に何かを探し始め、やがてそれが先程の買物袋を見付けだした。
あった、私の日常があそこにある。
桐葉は買物袋のほうへ駆けて行く。安っぽい紙で出来たその袋は今し方までそこにいた観客たちに踏み付けられていて破れ、果物などの柔らかいものは無残に潰れている。桐葉は絶望的になりながら無事な缶詰などを拾い集めた。そしてもう熱狂を忘れ、それぞれが日常に戻ってしまった群衆をひと睨みし、遣る瀬なさが沸き上がってくるのに任せて奔りだした。
幾度か転びそうになりながら、そして群衆にぶつかりながら桐葉は家にむかって走っていった。先程の洗練された非人間的な動きではなかった。