大道寺知世の憂鬱


2000年6月ごろ書いた物。
友人に「生理痛を男にもわかるように描写すれ」
とセクハラ会話したのが原案。
それを知世になすりつけてしまう業。


無数の粒子が集合して原子核ができあがる。
無数の原子核が集合して分子ができあがる。

分子は元素を構成し、
元素が細胞を編み上げ、
六十兆もの細胞がヒトを組み上げる。

元をたどれば無機的で無味乾燥な粒子でできあがっている体。
それらの組み合わせの妙。
ヒトはそれを個性と呼び、時には好み、時には忌む。
その嗜好の差異ですら、無機的な粒子が織り成す綾。

   ◇ ◇ ◇

大道寺知世は自室でビデオカメラのメンテナンスをしていた。
テープを取り出す。
そこには友人、木之本桜の姿が記録されている。
大道寺はまるで宝物のような扱いでそのテープをデッキにかけた。
磁気に封じ込められた木之本の姿は、天文学的なビット数に分解され、解像度分の画素に再構成される。
大道寺はモニターのすぐ側で再構成の過程を待つ。
光の三原色が見て取れる程接近しているのに気付き、自身の滑稽さに頬を赤らめながら大道寺はモニターから離れた。
ソファに座り、視線を遣るモニターの上で三色の光が溶け合い、木之本の姿を躍動的に編み上げる。

ざわりと大道寺の体が粟立つ。
視線は木之本の姿に向けたまま、膝を抱えて甘美な粟立ちをこらえた。
憂いの浮かんだ目の表情は、小学四年生の幼さを残しているとはいえ、大人びた愁想を浮かべている。
大道寺は自身の動悸の高まりを、どのように鎮めれば良いかを知っている。その行為が与える悦も。

けれど大道寺はそれを厳しく律している。
自分が持っている感情のうねりや、澱、そういった不定形なものを木之本に侵入させたくなかった。

木之本桜は常に快活だ。
幼女らしくころころと笑い、感情の起伏もとても自然で歪んだ部分がない。
だから大道寺は木之本の一挙手一投足に興味が尽きない。
木之本が見せる楽しげな表情も、戸惑いも、悲哀も、何もかもが大道寺を魅了した。
経済的に恵まれた環境に育った大道寺は、欲しい物は何でも手に入った。
しかし大道寺はそれが厭だったから、自分から何かを欲しいと言うことはほとんどない。
必要に迫られた時のみ、その経済力を頼った。

木之本桜は、大道寺にとってどうしても必要な存在だ。
そして木之本は経済力も必要とせず身近にいる。
物欲を自戒する必要もなく手の届くところにいつも木之本はいた。
それなのに大道寺は木之本に触れたくない。
いや、正確には触れる事を厳しく制限している。

木之本は一種崇高な何かだった。

崇高であるが故に、自分のどろりと濁った澱を遠ざけたかったのだ。
しかし「崇高」などという感覚が如何に陳腐で滑稽かを大道寺は知らない訳ではなかった。
木之本を祭り上げる酔狂が強ければ強いほど、自身の可愛げのないどろどろした物が強ければ強いほど、

木之本の幼い快活さは翻って大道寺の醜さを克明に映し出す鏡になっていた。

大道寺は、だから間接的にしか木之本に接触しない。
木之本を凝視する時は必ず電子的な画素越しでないと安心できない。
無数の情報に還元され、木之本の構成要素をある程度蒸留した状況でないと見つめることができない。

木之本の為に意匠を凝らした服を作るのも、木之本を抱き締めて包んでみたいという欲望を最大限に律した代償行為なのだ。
だから大道寺は服の全てを自分で作る。
服という創作物に込められる「大道寺知世」という要素をできる限り薄めたくなかったから。
そして大道寺が木之本の前でおどけて見せるのは、持て余してしまう不自然な感情が作り出す逆説的な自然さだった。

何一つ枷を付けない大道寺は生々しい。
いま画素越しに木之本を凝視する、酔狂で、滑稽で、粘性の強い女。
それが大道寺なのだ。

画素に還元された木之本が華麗に舞った。

大道寺は甘い罪悪感に苛まれ、堪らずビデオを止めた。
指先に感じる違和感が、直前まで服をきつく掴んでいた為だと気付くのに少し時間がかかった。

鼓動が耳にうるさい。
多分生理が近い。
感情が普段より不安定になって来ているのが分かる。
また不慣れな腹痛が襲い掛かって来るのかと思うと憂鬱だ。
下腹部を襲うざらついた痛み。
細かな粒子が際限もなく混濁した流れを作り、子宮をねじ伏せようとする拷問。

   ◇ ◇ ◇

その日、友枝小学校では四年生女子を対象にした初めての性教育の授業が行われた。
視聴覚室で見る紋切り型の、けれど刺激的な映像。
それはすでに初潮を迎えていた大道寺には苛立ちの種となった。
生命の織り成す神秘的なものというよりは、生々しい日常の延長を見せつけられた様で、少々不快だったのだ。

木之本はその隣りで無邪気な当惑をその眉に宿していた。
幼い目は定まりなく映像を見、口元も呆けたような形を作っていた。
大道寺は木之本が未だ初潮を迎えていない事を知っている。
だから彼女の当惑や、呆然を汲み取ってやる事がもはやできない自分が恨めしい。

ふと、木之本が大道寺に視線を送った。
大道寺は涼やかな視線を返した。

否、返してしまった。

木之本の寄越した不安な視線とは明らかに異質な視線だった。
そしてその視線の温度の差が、木之本に「大道寺は既に幼女ではない」ということを悟らせてしまう。
木之本は普段の会話の呼吸を乱して言葉を失った。
それが二人の隔絶を何よりも雄弁に物語っていた。

帰り道、木之本は無意識裡に大道寺から少し距離をとって歩いた。
大道寺はその不自然な距離を敏感に感じ取り、そして複雑な心象の渦に溺れた。

木之本もやがて径血を流す。
無数の粒子が子宮を捻るあの痛みを味わうのだ。
赤黒い径血を性器から零すのだ。
粘性の下り物を零すのだ。
膣が様々なものを吐き出し始めるのだ。

子供を産む為に。
そう、子供を産む為に。

崇高な一つの偶像から、卑俗な一人の女に成り下がるのだ。
自分と同じ生々しいモノになってしまうのだ。
澱の塊になってしまうのだ。

けれど

木之本は大道寺の居場所に近付いた。
崇高な偶像は、大道寺に触れられるくらいに親近感を自ずから放ち始めたのだ。

「木之本が自分と同じに成る」

その認識は大道寺の心を激しく揺さぶった。
大道寺自らが強力に律していた境界が急速に溶け始めている。

境界の融解は大道寺にとって最大の禁忌である筈だった。
澱が、澱みが、木之本桜という偶像を侵してしまう。
確固として絶対的なその存在が、固体であり粒子である絶対性が、非常にもろく相対的で波動のような脆弱な存在に変化してしまう。
けれど相対的な波動であるならば、「大道寺知世」というもう一つの波動によってその性質を変えられる。
ある存在が絶対性を失ったその瞬間、他者の介入はその存在の本質そのものを変えてしまう可能性があるのだ。

大道寺知世はいま木之本桜を偶像ではなく、より近しい存在、重みや熱や匂いを持った存在として感じられるかもしれないのだ。

大道寺の中で価値観が揺らぎ始めた。

木之本に触れたいという感情が、卑俗で矮小なものではなく、とても自然であたたかなものとして感じ取れるような予感がするのだ。

   ◇ ◇ ◇

三色の画素が映し出す木之本の姿。
粒子に還元された木之本の電影。
澱みのない偶像。

膝を抱えてそれを見つめる。
血流がその粒子の一つ一つを血管に擦りつける音が耳の奥に聞こえる。
子宮が捻られるように痛む。
とげとげしい粒子の奔流が下腹部で暴れている。

画素の中の偶像がこちらを向いて微笑みかけた。
愛らしい表情、けれど電子の粒が構築したそれはあたたかさを持っていない。
重みや、存在感を希薄に蒸留した偶像だった。

大道寺は木之本のあたたかさが欲しくなった。
還元され、再構成された木之本ではなく、生々しい存在感を放つ木之本を五感で感じたくなった。

崇高な木之本など欲しくなかった。
自分と同じ存在の木之本が欲しい。

下腹部が痛む。
視線は映像から外せないまま手のひらを下腹部に当てた。
蠢いている粒子が感じ取れそうな気がする。

やわらかな腹部の感触。
肉の感触。
少し汗ばんだ手の湿った感覚。
痛みを和らげようと、そこをさする。
木之本の映像を凝視しながら下腹部をさする。
映像の木之本がこちらに何かを語りかけている。そしてまたにこりと笑いかけた。
大道寺の唇に吐息が昇った。
この痛みを木之本に鎮めて欲しかった。
木之本の手のひらで、この生々しい粒子の奔流をさすって欲しかった。
全身が粟立つ。足の指を強く握った。
血液の粒子がざわざわとうるさい。
視界が潤み、木之本の映像が歪む。
大道寺の吐息が甘く零れる。

指先が降りて行く。
映像が不思議そうな表情をしていた。
幾度も見た映像。
このあと木之本は困ったような微笑を浮かべて向こうに走っていく。
そしてこちらを振り返り手を振る。

映像の木之本が大道寺の記憶の通りに走っていく。
小さくなっていく木之本の像。
解像度が低くなっていく木之本。次第に画素の海に溶けていく木之本。
振りかえり、手を振る。
けれど粒子の粗いその像の浮かべている表情はよく分からない。
振られている手も、指先の繊細な構造までは見分けられない。

大道寺の指先が自らをさぐる。
否。
その指先は大道寺のものであって大道寺のものではない。
それは木之本の指先を喩えたものだった。

還元された無機的な粒子の集合などいらない。
画像は、あまりにも疎だ。
有機的で圧倒的な密度の粒子で構成され、確固たる存在感のある木之本の指先でさぐられたい。
零れ、絡み付いてくる感情が内包されたその潤みを、木之本の指先で増長したい。

大道寺は木之本の名を吐息に溺れながら口にした。
涙が一粒落ちた。

痛みと悦とに翻弄される大道寺の傍らでビデオが終わり、画面がきつい青一色に染まる。
はっと大道寺は我に返る。
指先は愛液で色の薄まった径血に濡れていた。
それを呆然と眺めながら、大道寺はからだから熱が引いていくのを意識した。
白々しく冷めていく甘美な情念。その体に残るのは下腹部の痛みだけだった。

   ◇ ◇ ◇

洗面台で手を洗う。
後悔と自責の念が膨らんでいく。
偶像を冒してしまった。
径血が流れていく。
自分の中のどろどろとしたものが流れていく。
子宮が作り出すどろどろとした女の要素。

大道寺にとって子宮は苦痛を生み出す臓器だった。
幼女から少女になったとき、突然その臓器は自己主張を始め、苦痛を与え始めた。
何もかもを取り仕切られ、否応無しに意識の変革を余儀なくされた。
木之本もじきに子宮の虜になるのだ。
快活さをそがれ、異質なものになって行く木之本を見なければならないのだ。
苦痛に顔を青ざめさせる木之本を見なければならないのだ。
どろどろとした女の要素を生成している木之本を見なければならなくなるのだ。

子宮。
これさえなければ、木之本は偶像のままで存在できる。
けれど、
それがあれば、木之本は自分に近しい生々しさと、温かさを手に入れられるかもしれない。

大道寺は、成長していく自分を恨んだ。

 

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