そのきずあとはやがて

痕から、千鶴バッドエンディング後の話です。
猟奇です。ご注意を。

今にして思えば、食卓についた時からおかしかったのだ。
初音はそのときを思い返す。
最愛の親戚、耕一が欠けた柏木家の食卓は、確かにそれ自体違和感を持っていた。
けれどその違和感はあくまでも喪失感や空白感に由来していた。
だから、そのとき初音の感じた意識の淀みは明らかに異質なものだったのだ。


ある日、柏木家の夕食、
初音は千鶴と楓の待つ食卓にいそいそと味噌汁を運んでいた。
卓上には魚の煮付けが照りもおいしそうに並んでいる。
そして初音のよそる味噌汁にはほうれん草の鮮やかな緑が浮かんでいる。
「梓お姉ちゃん、味噌汁も準備できたよ。いつでも食べられるよ」
「分かった、今行く」
梓は煮物の入った皿を持って台所から出てきた。
「お待たせ。ちょっと味付け失敗しちゃって、直してたら手間取っちゃった」
座卓の真中に置かれた煮物から、食欲をそそる香りが広がって鼻腔をくすぐる。
「珍しいよね、梓お姉ちゃんが失敗するなんて」
初音の何気ない言葉に、ふっと空気が重くなる。

四人の視線が泳ぎ、時に耕一の座っていた空白に流れ、また他へと移る。

「さ、さあ食べましょ。せっかく梓が苦労した煮物が冷めちゃう」
千鶴が間を埋めるように言う。
「甘い、甘いなあ千鶴姉。煮物は冷めるときに味が入るんだぜ」
梓が得意になって言う。千鶴をやりこめるときの梓は目の輝きが違う。
「でも食べるときはあったかくないとおいしくないよ……」
初音がつぶやく。それを打ち消すかのように梓は元気よく
「い、いただきまーす」
と高らかに夕食の開始を宣言した。

普段と変わらぬやりとりを見ながら、楓がかすかに息をこぼした。
その吐息は隣にいた千鶴にかすかに聞こえる程度のものだった。
初音には、千鶴が何かにびくりとしたように見えた。

意識の澱のようなもの。空白感ではない異物感は夕食の間中感じられた。

   

「お風呂沸いたよ千鶴お姉ちゃん。早く入れって梓お姉ちゃんが」
「あら、私は別に後でもいいわよ」
「って言うだろうから急かして来いって言われちゃった。明日早いんでしょう」
梓の如才なさが遺憾なく発揮されるたび、千鶴は姉としての自信が揺らぐ。
まったく先回りの上手な妹だ。

「楓」
「何、千鶴姉さん」
普段から無口な楓の声は息がこもっていて、それほど通りのよい声ではない。
声音自体は良いにしても、会話によって磨かれる生気や艶を欠いていた。
千鶴はうつむき気味に振り返る楓の表情をうかがうために一呼吸の間を置いて
「一緒に入らない、お風呂」
と尋ねた。
楓は千鶴のほうに向き直る間だけ逡巡し
「いいよ」
と肯定の抑揚でつぶやいた。
千鶴の発した言外の意味も楓には伝わっていた。

楓は下着を外した千鶴の滑らかに白い背中を見ていた。
やわらかな稜線に、下着の跡がほのかに赤く残っている。
千鶴がこちらに視線を送ってきたので、楓は何気ない動作で視線を落とす。
ブラウスのボタンに手をかけ、大切なものを扱うかのように外していく。
ブラウスを脱ぐとすぐに楓の薄い胸があらわになる。
姉妹の中で楓は唯一下着をつけていない。
胸の発育があまり芳しくないことはあまりコンプレックスではなかった。
二人の姉の乳房を見ても、自分にもそれが欲しいという感情は沸かない。
楓は自分が女であることをあまり積極的に受け入れていない。
かといってそこに積極的な否定があるわけでもない。
言うなれば、性的に未分化でありたいという欲求がある。
思春期特有の心の当惑というのではなかった。
楓の場合は他人とは一線を画した理由から自分の中の女を凍結している節がある。
それは楓からは決して語られることのない理由だった。

千鶴は湯船のふちに腰掛けて湯の中の楓に声をかけた。
「言いたいこと、あるんでしょう」
楓は口を開きかけてまた閉じた。言葉を紡げなかった。
なぜなら楓の心情を満たしているのは、千鶴へのあからさまな憎悪だっただからだ。
「楓、私はあなたから何を言われても受け止める覚悟があるわ」
楓は一瞬見開いた目をきつく閉じた。そして肩が震え始めた。
楓から波紋が不規則に、そして不吉に広がる。
ばしゃっと音を立てて楓は立ちあがり、千鶴の顔を直視した。
波紋が無数に作られ、うねり合う。
「なぜ殺したの」
息のこもる楓の声は憎しみに震え。怜悧な目許が焦熱を帯びて千鶴を射抜く。
千鶴は納得させられないことを承知で口を開く。
「耕一さんには鬼を制御できなかった、だから……」
儀式的なその言葉は楓に聞こえていない。楓はすうっと目を細めた。

「なぜ……抱かれたの……」

楓の言葉に千鶴は色を失った。

楓の中で何かがはじけた。

「抱かれて、殺して、何もかも、何もかも私から獲っていって……」
楓の視界が狭まっていく。
狭まった視界に捕えられた千鶴の乳房、それらは耕一の指先を知っている。
「私はずっと待ってた、耕一さんが気付いてくれるのを、ずっと、何年も何年も……」
何世代も昔に愛し合った記憶。時を越えて色褪せることなく刻まれた記憶。
それは幼い日に楓だけが気付き開錠し、耕一に告げることなく秘めてきた記憶。
震えながら下がって行く視線が千鶴の下腹部で止まる。
湯に濡れた陰り。耕一の情念を全て受け止めた器官がその奥にある。
「私の気持ちを知りながら抱かれるのはどんな気分だったの」
辛くて胸が締め付けられる想いを、たった一人、千鶴にだけ打ち明けた日の記憶。
視線を上げた先に見える千鶴の哀しげな目。楓には淫蕩な光を湛えて見える千鶴の目。
「抱かれて満足して、そのあと殺して……」
千鶴の耕一への想いは知っていた。納得しようと努力もした。けれど……
喉に、憎しみの塊が物理的な体積をもって詰まり、楓は言葉を失った。

耕一は最期のそのときに、殺してくれと千鶴に囁いた。
耕一の腕の中で、千鶴はその絶望的な最後の愛情を受け入れた。
刺しこまれていく自分の爪。崩れ落ちていく最愛の人。
耕一の苦しみからの開放。千鶴の虚無感への閉塞。
千鶴は自分を苦しめているやるせなさと後ろめたさを言葉にしたい衝動に駆られる。
けれどそれが楓の慰めになどなりはしない。千鶴はその欲求を渾身の力で押さえつけた。
気付いたのだ。
千鶴は耕一の体温を知っていた。からだにその思いを注がれた。
楓は耕一を何も知らないのだ。そして楓には遠い過去の記憶以外何も残っていないのだ。

千鶴が楓に手を詮無く差し伸べた。

楓は振り払った。

次の瞬間楓の胸が返り血に染まり、千鶴の手首から先が浴室の壁に叩き付けられた。
真紅の華を壁に咲かせてその手は不満げに床へと落ち、予想外に重たい音を立てた。

楓の瞳孔が縦に閉じている。振り払った手には禍禍しく伸びた爪。
鬼が発動していた。
千鶴が動揺を知覚するいとますら与えず、楓は肩口をめがけて爪を振り下ろした。
二つの裸体がもつれ合った。

次に二人が静止したとき、楓は千鶴に馬乗る形になっていた。
楓の爪は千鶴の左肩を切り裂いていて、千鶴の無事な方の手は楓の腹部を貫いていた。
千鶴の手が血に染まるのはこれで二度目だ。一度目は最愛の人。二度目は今、最愛の妹。
爪が肉を切り裂き、穿ち、手に内臓の温かな温度とぬめぬめとした感触が伝わる。
続いて背中へと抜ける絶望的な開放感と、腕を愛撫する赤い生命のしたたり。
もう二度とこの感触を味わうことはないと思っていた。いやむしろ祈っていた。

千鶴がそこに気の迷いを起こしさえしなければ次の楓の動作を避けられた。
楓は事も無げに突き刺さった千鶴の腕を肘から切断した。
鬼の目に理性の閃きはなかった。そこには憎悪と哀しみと血への衝動が渦巻いていた。

人間の目で千鶴は鬼を見た。
姉の心で千鶴は全てを観念した。
そして母の愛で全てを受け入れた。

楓という名の鬼は腹部に突き刺さった腕もそのままに、姉の乳房を引き千切った。
    私が下着を着けないのは
これは愛した男の指先を堪能した部分だ。
    「女」を見せたくないから。
楓はその肉片を自分の胸にこすり付け、すり潰す。
    私は誰かの前で女でいたくない。
乳腺が引き延ばされ役割と意味を失っていく。
    あの人の腕の中でだけ、
楓はその肉塊をほおばり、噛み千切り、血のにおいを鼻腔に送りながら飲み込んだ。
    私は女になりたいから。
次に楓はひざを無造作に千鶴の腹部に乗せる。人外の力は事も無げに腹部を破裂させた。
    私の乳房が薄いのは多分女からの忌避
千鶴の口から血と胃液と胆汁がない交ぜになって溢れ出る。
    私がこの胸をはじらうのは
楓は足を腹部に突き立て、そのまま後ろへ引きずった。筋肉繊維が千切れて行く音。
    あの人の視線の前でだけ。
千鶴の胴は背骨の外れる音を最後に二つに裂かれた。
    他には誰も近くに来ないで欲しい
肝臓と胃、膵臓が肋骨の合間から覗き、小腸がすり潰されて伸びている。
    だから私は誰かを惹きつける「女」というものを受け入れたくない。
楓は千切られた下半身に手を差し入れ、邪魔そうに残った小腸をつかみ出す。
    ずっと待っていた。
大小のはらわたを無造作にわきにどけ、楓は目的のものを見つけた。
    あの朝、話をしようと言われたとき嬉しかった。
ひときわ赤い、生命を宿すための器官、耕一の情念が注がれ宿された温かい揺籃。
    嬉し泣きをしながら学校に行った。
引きずり出す。内側から引かれて膣口が不自然にゆがみ、ぶつりと繋がりが絶たれた。
    耕一さん、やっと……
楓はそこから垂れ下がる管を引き千切る。一対の小さな房を握りつぶす。 
「姉さんばっかり、姉さんばっかり、姉さんばっかり姉さんばっかり」
子宮を幾度も幾度も床に叩き付ける。
「姉さんばっかり姉さんばっかりねえさんばっかりねえさんばっかり」
それはやがて叩き潰され肉片になり血のかたまりとなり飛沫になって浴室に散らばった。

千鶴は楓の手が自分の首と頭にかかるのを感じた。
鬼の力はその頭を真後ろにねじる。
頚骨が外れ粉砕される音、血管や神経が千切られる音。それらが千鶴の内耳へ直に響いてくる。
その頭は更に捻られ再び鬼と対面した。
千鶴は
「耕一さんごめんなさい、私、また楓にひどい事をしてしまいます」
と薄れ行く意識で思う
「わたし、もうすぐあなたのもとへ……」



初音も梓も、いきなり膨れ上がった強大な鬼の気に圧倒されて気を失っていた。
梓がまず目を覚まし、尋常ではない血の匂いに驚愕した。
匂いの元をたどって行き着いた浴室の状況に呆然とし、次に嘔吐した。
「梓……お姉ちゃん……」
と梓の背後で初音が壊れそうな声で呼びかけた。
「初音来るなッ」
その声にびくっとして初音はその場にへたり込んだ。
そして浴室から聞こえてくる音と血の匂いに、初音もまた咳き込むように嘔吐した。

浴室の中では腹部から背中に穴を穿たれた楓が、少しづつ千鶴の肉片を増やしていた。
腕は引きぬいていたが、そのときに吹き出した失血程度では死ねないのだ。
楓の目は、光を反射することは出来ても取り込む事は出来ない肉のガラス玉だった。
やがてごとりと倒れた楓は、それでも呼吸を続けていた。
腹部の穴もやがて塞がり、ただきずあとを残すだけになるだろう。
けれど楓の怜悧な目許はもう戻っては来ない。
千鶴のやさしい笑顔も、無残に転がった頭からは思い出すことが出来なかった。

 

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